今回皆さんにご紹介するのは東京墨田区のコーヒーとけん玉のお店「muumuu coffee (ムームーコーヒー)」の店主、灰谷歩さんです。
メルボルンでの出会いやコーヒー店を立ち上げるまでの貴重なお話を伺ってきました。
海外の街でコーヒー文化に影響を受ける
灰谷さんがカフェを立ち上げたきっかけは、海外で感じた人と人の繋がりからでした。
さまざまな景色をみてきた灰谷さんは皆さんと同じ、もしくはこれから迎える20代を、どのように過ごしてきたのでしょうか。
クレモナの街「コーヒー屋をやりたい」
—コーヒー屋をやりたいと思ったきっかけを教えて下さい。
20歳くらいのときにはじめての海外旅行で行ったイタリアがきっかけです。
クレモナという街には小さいバルがいくつもあって、その一つに女性が一人で切り盛りしているお店があったんです。コーヒーを飲みに来たお客さんと会話を交わす日常的な光景をみて漠然と、「自分がやるならああいうコーヒー屋やりたいな」と思いました。
ワーキングホリデーとメルボルンのコーヒーカルチャー
そして、20代後半でオーストラリアのメルボルンにワーキングホリデーをしに行ったのですが、コーヒーのカルチャーがとても発展していました。
コミュニケーション重視でコンセプトがあり、デザイン性もコーヒーのクオリティも高く、個性の強い個人店が沢山あって、それぞれキャラクターをもっているところが良かったです。
イタリアでも感じたことですが、生活の延長線上として、コーヒーを通じて人と人のコミュニケーションをとる感じが心地よく、メルボルンでも同じ感覚を持ちました。
—ワーキングホリデーではどんなことをしていたのですか?
2ヶ所の農園で3ヶ月間ほど滞在して、馬のお世話したりフルーツ農園で肥料を撒いたりしました。
農園の他に現地で友達とバンド組んだり色んなライブに行ったりして、向こうの音楽シーン、ライフスタイルを見ました。
帰国後はこれをどこまで日本で実践できるか、逆になにが問題でできないのか考えるきっかけになりました。
オーストラリア系のコーヒー屋でバイト
早速日本に帰ってきてからオーストラリア系のコーヒー屋を探し、そこに飛び込んでアルバイトをさせてもらいました。
ただ、結果的に早々に辞めることになってしまい、その後はしばらくやることがなくて完全に心が沈んでしまいました。
そんなときに、そこのアルバイト先の先輩が自分でコーヒーのお店をオープンしたことを知ったんです。実際にお店に行って先輩の話を聞いていたらエネルギーが湧いてきて、帰りの頃にはやる気がみなぎっていました。再びバリスタのアルバイトを探して働きながら、自分のお店も考え始めました。
そして、この京島に出会います。
京島に出会い、1号店を立ち上げる
ワーキングホリデーで知り合った友達が京島でシェアカフェで働いていたことがきっかけで、そこで僕らが二ヶ月に一回くらいのペースでライブをしに行く、ということを一年間ほど続けました。
ライブ後はお店も全部閉まって静かで街のことはよく知らなかったけども、繰り返すうちにそこのシェアカフェを運営する管理者と知り合います。 そこで「コーヒー屋をやりたい」という話をしました。
先に物件の話をもらっていたバンド仲間から話を聞きつけて見に行ってみたら、まずとんがり屋根がかわいくて「いいじゃん!」って。大家さんに中を見させてもらって、条件も良かったので、それを理由に意気投合した仲間と共にお店を始めました。
先のことを考えても仕方ない「とにかくやってみる!」
—100万円以下でお店を立ち上げたそうですが、事前に情報をリサーチしていたのですか?
いやそれが100万円以下で始められるなんて情報はひとつもなくて。どこをみても最低300万〜、500万〜とかで。でも物件は目の前にあって、月々いくら払うかも分かっていて、だから「できるんじゃない?」って。なるべくお金をかけない方法で、勢いで始めてみました。
感覚としては計算しているんですけど、最初の設計図すらなくて(笑)ただ一番お金がかかりそうな水場やガス、電気の見積もりだけはしてもらって、残りは「10万くらいで作れるでしょ!」って軽い見積もりで。
—コーヒーをつくる関係の機械はどうされたのですか?
費用はとにかく抑えて、エスプレッソマシンは一番安いセミコマーシャルマシンを海外から25万円前後で個人輸入しました。ミルは、当時もしっかり良い製品を選びましたが個人輸入したら6万円で購入できて。
あとは余裕があるときに少しずつ揃えていく感じでしたね。
1年1ヶ月かけて2軒目を立ち上げる
—1軒目を立ててから、ここの2軒目はどのタイミングで立ち上げたのですか?
2016年にこの物件をとりあって、2017年に移りました。空き家となった物件の大家さんがうちに「誰か興味を持ってくれる人いないですか?」って相談しに来てくれたんです。
状態はどんな感じか、家賃はいくらか、どんな人に入ってほしいか、この状態のまま貸せるか、改装は自由にできるか、など色々話を聞いて条件を整理していったんです。そうしたら条件が自分にぴったりになっちゃって。それで2016年に借りることになりました。
もちろん、この経緯だったのでなにも準備していなくて。1軒目のお店を続けながら、1年1ヶ月かけてつくっていきました。週6で働いて出来たお金でここのゴミを捨てて、材料買って、工事してって少しずつ。
お金より「今」どんな状態なのか知って生きていくほうが大事
-そのとき既に1軒目は安定していたのですか?
僕の中では安定しているけど、経営者目線で見たらずっと低空飛行。僕は底を底だと思わないからやっていけるだけで。だって将来のことなんてわからないじゃないですか。
今この状態が健康であって、せめて次の家賃を払える打算があって、そしたらあとはなにが問題なのかな、と。もちろん確定申告もするから計算するタイミングはあるけど、結果として見るだけでそれが赤字だろうが黒字だろうが、今この状態だし。
たとえお金がギリギリだとしても「あれ?でも毎日楽しいな」っていう気持ちの方にフォーカスを当てているから、僕の精神的には最初から今までずっと安定してるといえます。
-そういう考え方になったのはいつからですか?
お店を始める前から楽観的というか「今を大切にしろ」という考え方でした。いろんな人たちに出会ったりいろんな国に行ったりして、お金よりも今どんな状態なのかを知って生きていくほうが大事なんじゃないかというのが少しずつ確信になっていった気がします。
僕は基本的にやりたいことしかずっとやってこなかったし、前例をあまり気にしないタイプでした。人のものを参考にして「できない」って判断したくないんです。例えば予算にしても、「300万円ないとできない」のではなくて、「100万円でもできるでしょ」って考え方をしたくて。
-灰谷さんのバンド活動の影響も多そうですね。
確かに、バンド活動とも繋がっているのかもしれないです。当時、音楽の専門学校に進んでギター科に入ったのですが、周りはすでに歴が長くて上手な人ばかりでした。だから、同じフィールドで戦うよりも、自分が周りの人に負けないところで戦いたいなと思ったんです。
図画工作が得意だったので、音を素材として考えて「これで作品を作る」ってマインドに持っていけば、この人たちと対等に戦えると思いました。その頃から自分の長所を使いまくる、なんでもそっちにこじつけるっていうマインドでしたね。
後編に続く
後編では、より灰谷さんの人生、アイデンティティに迫っていきます。
どうぞ、お楽しみに!