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大学生のうちに出会いたい、近現代詩4選

ペンはときに、どんな武器よりも強く、鋭く、心を貫く。

言葉。詩。

人生を変えてしまうほどの言葉に、出会ったことがあるか。

知ってしまったら最後、それまでどう生きていたかも思い出せないほどに、人生を揺るがすほどの

力ある言葉に、出会ったことがあるか。

文学は、静かなる革命。

今回は、臆病な心に寄り添い、感情の代弁者となるような詩を四つ紹介します。

 

谷郁雄「祝福」

百年前 あなたはいなかった

百年後 あなたはもういない

木が葉っぱを茂らせたり

散らせたりするのと同じように

あなたは嘘をついたり恋をしたり

いろいろと 忙しい

幸せとは ただそこにいること

よろこびで 顔をしわくちゃにして

 

いつ出会ったかも覚えていないけれど、この詩を読むたび、出会った日に心に負った交通事故並みの大打撃が蘇る。そのくらい生きることの本質を突いている詩であると言いたい。

誰かを好きになったり、嫌いになったり。人は短い人生の中で交わり、別れていく。

「百年前」という大胆な冒頭に始まり、恋をすることの美しさを自然との対比を通して穏やかに描き、綺麗事だけでは成り立たない人間というどうしようもない生き物の「幸福」の最大の営みとして笑顔でただそこにいることを肯定してくれる。

なるべく平易な言葉で、誰のことも否定せずやさしく包み込むような文体と喩えが谷郁雄さんの詩の魅力です。

ありふれた日々の尊さと、今この瞬間を生きることの美しさを思い出させてくれます。

 

田村隆一「帰途」

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の下からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
君の一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 

痛烈な冒頭から始まる、現代詩の中でも代表的な田村隆一さんの詩。

言語表現を前提とする文学という営みの中で、それを覆すように綴られる言葉には誰もが唸らされる。

表現するとは、感情を掬うこと。

たとえ「つらい」という感情を抱いている人がいても、もしその感情を形容する言葉が存在しなければ、そもそも私たちはそれに気づくことはない。人は、存在しないものを想像することが難しい生き物だから。

だったらいっそ、と作者が提示するのが、言葉のない世界。

たとえ言葉のある世界であっても、他者の痛みに気づかない人は多く存在する中で、あなたが他者の痛みを理解できるのは、あなた自身が多くの痛みに触れてきたからなのだろう。

でも、そんな風にして、この世界ではやさしい人から順に崩れていってしまう。この詩は強い口調で綴られながらも、読み手の優しさが崩れる手前で必死に食い止めてくれているようである。

言葉なんか覚えるんじゃなかった。そう吐き捨てながらも、最後には誰かの涙のなかへ戻ってきてしまう。そのどうしようもない優しさこそが、この詩の痛みなのだと思う。

 

吉野弘「祝婚歌」

2人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい

立派すぎないほうがいい

立派すぎることは 長持ちしないことだと 気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

2人のうちどちらかが ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても 非難できる資格が

自分にあったかどうか あとで 疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか 正しくありたいとかいう

無理な緊張には 色目をつかわず ゆったり ゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で 風に吹かれながら 生きていることのなつかしさに

ふと 胸が熱くなる そんな日があってもいい

そして なぜ胸が熱くなるのか

黙っていても 2人にはわかるのであってほしい

 

「祝婚歌」は、作者・吉野弘さんが、自身の姪の結婚を記念して贈ったもの。

一対の男女が長く安らかに暮らしていくためのエッセンスが凝縮された詩である。

「立派であれ」「完璧であれ」といった啓蒙を掲げるのではなく、むしろ昭和52年当時の価値観とは逆の言葉を並べているところが印象的である。半世紀近く前に書かれた詩でありながら、現代を生きる私たちにも自然と染み込んでくるところに、この作品の普遍性がある。

ただ、「祝婚歌」と題を称しながらも、これは性愛関係に限って光を放つものではない。他者との関わりの中で、誰しもが心に留めておくべきだが脚光を浴びることのない優しさたちが据えられているのだ。

ありふれた生活に疲れを感じてしまった日のために、そっと心にしまっておきたい詩である。

 

茨木のり子「倚りかからず」

もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ

 

自分の軸を持って生きるのは、簡単なことではない。他者の言葉に感化され、自分自身が変容していくこともあるからこそ、自分の思想や哲学と他者のものとでどう折り合いをつけるかは悩ましいことだろう。

聞く耳を持ちすぎるとブレていると言われ、強く主張しすぎると独りよがりだと言われる。複雑な人間社会を生きる我々に必要なのは、このくらい清々しい潔さなのではないか。

茨木のり子は、昭和の時代に活躍した女性詩人である。どんな思想や権威にも迎合しない姿勢を貫いたこの詩は、男性優位だった当時の社会のなかで、多くの女性を鼓舞してきたのだろう。

 

おわりに

「ペンは剣よりも強し」というように、言葉はいつだって私たちを強くしてくれる。その効力は、計り知れないだろう。

詩はときに人を救ってくれるけれど、一方で、傷つけることもある。悲しみや苦しみを想起させてしまうものでもあるからだ。

しかし、新しい感情を知らないまま生きていくよりも、幾分か傷つき、苦しみながら生きる人生のほうが、よほど美しいように思える。

時代や性別、世代を超えて、あらゆる他者の思想や美学に立ち止まる。そのすべてを吸収する必要はなくとも、もし気に入ったものがあったならば、その一つや二つをどうかお守りのように胸にしまって、生きてほしい。

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