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『大豆田とわ子と三人の元夫』は、なぜ単なるラブコメではないのか

『大豆田とわ子と三人の元夫』の主人公は松たか子演じる大豆田とわ子。三度の離婚を経験した建築会社の社長を務める40歳の独身女性だ。物語は、彼女とそれを取り巻く人々の日常を群像劇のように描いていく。三人の元夫たちは未だにとわ子に惹かれており、クセの強い元夫同士が巻き起こすハプニングに、とわ子はたびたび振り回される。

この筋書きだけを見れば、一見ただのハーレム恋愛ドラマのようにも思えるだろう。実際、フジテレビ公式サイトの番組紹介では本作は「ハートフルラブコメディ」という言葉で形容されており、そう受け取られてしまうのも無理はない。

けれど、この作品を最後まで見た人なら、物語の本質は「恋愛」ではなく、「愛する者の死とどう生きていくか」という、もっと根の深いテーマに置かれていることに気が付くはずだ。「ハートフルラブコメディ」という看板の奥には、誰もがいつか向き合うことになる「喪失」というテーマが一貫して語られている。

本記事では、『大豆田とわ子と三人の元夫』という作品を恋愛ドラマの枠組みから外して考察することで、根底に潜まれた「死者とともに生きること」というテーマに迫る。

 

さりげない会話の裏にある「喪失」

第一話、とわ子は他愛もない雑談の中でこう口にする。「布団が吹っ飛んだのを見た」。そしてそれに続けて、「お母さんのお葬式の帰りに」と。この何気ない倒置での言葉の置き方こそが、本作の特徴である。悲しみを大声で語らせるのではなく、日常会話の隙間に忍ばせるのだ。

『大豆田とわ子と三人の元夫』は、恋愛ドラマの体裁を取りながらも、実は冒頭から「死」というテーマが通底しており、それこそが本作が独特な余韻を持つ理由である。

 

死者の言葉は「呪い」になる

作中で描かれる死は二つある。とわ子を女手一つで育てた母・つき子の死、そして家族同然だった親友・かごめの死だ。かごめは第6話で、何の前触れもなく心筋梗塞で命を落とす。

この作品が優れているのは、単に誰かが亡くなってしまうという「死」の概念そのものの悲しみを描くのではなく、「死者が生前に遺した言葉が、死によって撤回不可能になってしまう」という仕方のない事態に焦点を当てている点だ。

たとえば、母が生前とわ子に何気なく投げかけた「誰かに頼って生きていきたい? 一人でも大丈夫のまま生きていきたい?」という問い。そして、かごめが放った「社長業はとわ子がやらないといけない仕事」という一言。

どちらも、発せられた瞬間はとわ子への励ましや何気ない会話にすぎなかった。しかし、言った本人がいなくなってしまった時、その言葉は訂正も撤回もされないまま、遺された者の中で固定化されてしまう。

かごめの死後、とわ子が苦しい思いをしながらも社長業を続ける理由が、いつしか「かごめが見ていてくれるから」という他責の念にすり替わっていく様子は、まさに死者の言葉が生者を縛る「呪い」へと変質する過程そのものだ。

これだけでも、本作がありがちな離婚の悲劇を描いているだけではないということは明らかであろう。

 

呪いを解くのは「忘れること」でも「従うこと」でもない

では、この呪いから解放されるにはどうすればいいのか。本作が提示する答えは、視聴者に光を差すようなものであった。

かごめという最愛の友人を失って一年経った今、彼女の存在を時々忘れてしまうことがあると語るとわ子。かごめを忘れて自分が人生を楽しんでしまうことに、日々、罪悪感を感じていた。そんな彼女の心を解放する手立てとなったのは、朝のラジオ体操で出会った小鳥遊が語る「人生の二つのルール」であった。

①亡くなった人を不幸だと思ってはならない

②生きている人は幸せを目指さなければならない

この二つのルールは、この物語の核心を突いている。彼が続けて口にする「人はときどき寂しくなるけど、人生を楽しんでいいに決まってる」という一言は、とわ子を大いに救うこととなった。

そして重要なのは、この作品が「死者の言葉に従い続けること」も「忘れて自由になること」も、どちらも答えとして選ばないところだ。とわ子が最終的に選び取るのは、その言葉に新しい意味を自分で与え直すという、第三の道である。

 

「食べる」ことは「生きる」こと

「死者の喪失を克服する」というプロセスは、食事のシーンを通してもたびたび暗示される。その様子が最も顕著に表れているのは、小鳥遊との会話のあとで、とわ子が自発的にカレーを作り始める場面である。

「食べる」ことは「生きる」ことに直結する、人間にとって不可欠な行動である。死者を克服してしまったことに罪悪感を感じて落ち込んでいたとわ子が、自分のために台所に立つという小さな変化は、生きることへ前を向いた証だ。

さらに、小鳥遊ととわ子の喫茶店の場面では、ケーキを不揃いに分け合う学生たちを見て、「正しい分け方を教えてあげないのか」と尋ねるとわ子に、小鳥遊は「いいんですよ、あの方が思い出になる」と答える。これは、生きる上で何を選ぶかは他人が決めることではなく、自分自身で選び取るものであることを示唆していると言える。

そして物語終盤、とわ子は「人生は楽しんでいいに決まってる。あなたがそう教えてくれたから作れた」と言いながら、自らが作ったカレーを小鳥遊に振る舞う。ここでも、食べ物を分け与える行為が、彼女が再び「生きる術」を取り戻したことの象徴として描かれているのだ。

 

二元論を壊し続ける物語

本作をよく見ると、あらゆる場面で「AかBか」という二択が提示され、そのどちらでもない答えが選ばれていく構造に気づく。

かごめの「社長業を続けてほしい」という願いがありながらもとわ子に迫られた、「社長を辞めるか続けるか」という問いに対しては、物語はとわ子が辞める決意をしながらも、結局は辞めないまま幕を閉じる。

そして、母からの「誰かに頼って生きるか、一人で生きるか」という問いに対しては、終盤、とわ子は元夫・田中との会話で「一人では大丈夫じゃないけど、それでも一人で生きていくことにした」と語る。

いずれの死者の言葉に対しても、とわ子は、投げかけられた二択のどちらでもない、グレーゾーンの回答を独自に提示している。

そして最も象徴的なのが、かごめへの恋心を抱いたままの元夫・田中を受け入れ、とわ子が「三人で生きていこう」と口にする場面だろう。かごめはすでに亡くなっているにもかかわらず、彼女を語るときに「生きる」という言葉が使われている。ここで、生と死という最も究極的な二元論すらも解体されていることが分かる。

白黒はっきりとさせることが求められる時代において、グレーゾーンの回答を出すことを肯定する優しさこそが、本作の最大の魅力であり、他作品にない異色を放っている所以なのだろう。

 

ラブコメの皮をかぶった「死者との共生」の物語

『大豆田とわ子と三人の元夫』が本当に描いているのは、恋の行方ではなく、「愛する者を失ってもなお、その人が遺した言葉とどう折り合いをつけて生きていくか」という問いなのではないか。

死者との共生とは、死者を過去のものとして切り離すことでも、遺された言葉に縛られ続けることでもない。生きている側が、その言葉の意味を自分の手で解釈し直す権利を取り戻すことなのだ。

だからこそ、この作品を「元夫が三人いる女性のラブコメ」という一言で片付けてしまうのは、あまりにもったいない。軽やかな会話劇に内包されているのは、大切な人の死を経てもなお続いていく生活と、どのように向き合っていくかという極めてシリアスなテーマなのである。

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