誰かに憧れて、全く別の自分になりたいと考えたことはあるだろうか。
人は時として、自分に自信が持てない時や、家族関係・周囲の人間関係に息苦しさを覚える時があるだろう。もっと強く、自由で、人に認められるような人物になりたいと感じた時、人は「成長」したいと思う。しかし、「成長」するということは、今までの自分を否定しながら生き方を変えるということも意味する。
誰かに憧れ、認められるために慣れていない振る舞いをしたり、必要以上に強がったり、不器用な試行錯誤の中で自分自身を傷つけてしまうことだってあるだろう。人は成長することによってただ何かを得るだけではない。
何かを失いつつも進もうとする過程の中に、人としての「真の成長」があるのではないか。
2018年公開の『mid90s ミッドナインティーズ』では、そんな「成長」することの痛みを、1990年代半ばのロサンゼルスで生きる少年の物語を通して描いている。
本記事では、主人公の少年スティーヴィーが自分の弱さと向き合って周囲と関わる中で経験する歓びや葛藤を通して得られる痛々しい「成長」が、映画の中でどう描かれているのかということを分析していく。
あらすじ
1990年代半ばのロサンゼルス、13歳のスティーヴィーは兄のイアンと母親と一緒に暮らしていた。ある日、元から興味を持っていたスケートボードを兄から譲り受けて練習に励み、中々上達することはなかったが、次第に地元の年上のスケートボード仲間と親交を深めるようになる。しかし、レイを筆頭とする5人の集団に所属するようになったスティーヴィーについて、ひとりは自分の地位が脅かされていると感じて敵意を表しはじめる。
その後、スティーヴィーが大胆なスケボーの技を無理やり決めようとして屋根から落ちて怪我を負ったり、仲間達と参加したパーティーで喫煙、ドラッグ、飲酒などを初めて経験するなど、次第に不良のような振る舞いをしはじめる。悪化する息子の言動について不安を覚える母親はスケボーの仲間と遊ぶことを禁じ、レイたちに息子と縁を切るようにも宣告するが、スティーヴィーは母の目を盗んで仲間と遊ぶ。
家族の理解がないことを愚痴るスティーヴィーにレイは、仲間の皆もそれぞれが抱える家庭の事情などで苦しんでいることを告白する。ずっとマシな生活を送ることができていることを思い知らされたスティーヴィーは打ちのめされ、気分転換を兼ねてLAの道をレイと一緒にスケートする。
後日、仲間内の若干の対立によって雰囲気が悪くなるが、過度に飲酒をした一人の運転に連れられてグループはパーティーに向かう。彼の酒気帯び運転に危険を感じ始めた矢先に車は事故で大破するが、怪我を負ったのはスティーヴィーだけであった。仲間は入院したスティーヴィーを心配して病院ロビーで一夜明かす。彼らのその姿に感動した母親は彼らを病室へと招き入れ、仲間の一人が前々から撮影していたスケボーの様子がまとまったミュージックビデオを鑑賞するのであった。
弱い自分への嫌悪と新たな出会い
弱さへの意識
映画冒頭で紹介されるスティーヴィーはどのような人物として描かれているだろうか。
13歳という歳にしてまだ幼さが残るスティーヴィーは兄のイアンを慕っている反面、彼の力の強さや攻撃的な態度に圧倒されており、家庭内でスティーヴィーが存在感を示す人物である様子は描かれていない。身体の大きさの違いだけでなく、精神的な未熟さが残っている様子である。どのような振る舞いをすれば家庭内で一人の「大人」として接してもらえるかがわかっておらず、同時に、もう「子供」ではないということをどう証明すれば良いのかということで悩んでいると言えるだろう。
スケボー仲間への憧れ
自己の不確定性に悩みを深めるスティーヴィーは、ある日から地元の年上のスケボー集団と交友を深めるようになる。自分よりも年上の彼らにスティーヴィーは何を見たのか。それはまさに、彼らが「スケートボード」というものを通して集団に属し、周囲の環境に流されずに自由に振る舞う姿ではないだろうか。
家庭内の力関係に圧倒されて居場所を発見できていないスティーヴィーにとって、何かの集団に属するということは、今までの自分を捨てて新たな自分に近づくことを意味している。強い集団に属することが、弱かった自分からの脱却を表している。
「成長」を物語る描写について
無理やりなワザ
スティーヴィーが仲間と親交を深める過程で、集団への所属が決定的になる場面がある。
廃屋の屋根に空いた穴をスケボーに乗りながら技を決めて飛び越えるということをリーダーのレイが提案して皆が渋る中、経験が浅いスティーヴィーが挑戦し、穴に落ちて怪我を負う。無理と思いながらも挑戦した姿に仲間は感銘を受け、これ以降スティーヴィーは本格的にこの集団と行動を共にすることとなる。
このシーンが重要であるのは、スティーヴィーが自分の殻を脱ぎ捨てる様子を物理的な痛みが伴う落下を通して描いた点にあると思う。人として成長するために、実際に「痛み」を経験しているのだ。
大人の世界
映画の中盤、母親にスケボーについて心配された日の夜、仲間たちはとあるパーティーに行く。男女で仲良く会話をすると同時に、スティーヴィーは飲酒、喫煙、ドラッグ、性行為を初めて体験することとなり、今とは全く違う大人の世界に足を踏み入れる。無事帰宅後、兄からどこにいたのかと詰問される場面で、スティーヴィーは兄に対抗して暴力を振るう。
今まで存在していた家庭内の力関係が瞬間的に逆転する場面であり、スティーヴィーは満足する。しかし、このシーンにおいても、スティーヴィーが乗り越えた壁には未成年飲酒や違法なドラッグなど、健全とは言えない代償が伴っているのである。
交通事故
映画の終盤、仲間の対立がありながらも泥酔した運転手に連れられてパーティーに向かう際、彼らは大事故に遭う。入院しているスティーヴィーに面会を許されたレイたち仲間は、病室でお互いを慰める。レイはスティーヴィーの今までの果敢さを讃える一方、そこまで頑張らなくても良いのだとそっと教える。
誰よりも悲惨な目に遭ってるな。そんな必要ないだろ? (Ray)
弱い自分と決別するために集団に所属し身を削って変わろうと行動をしていたスティーヴィーは、この事故によってその悲惨さに気が付く。重要なことは、成長するために払った代償は大きかったが、成長できたことは事実だという点である。
最後に
この映画はロサンゼルスのスケボー少年の青春をただ描いているのではない。思春期における「成長」に伴う代償の痛みを色濃く描いている。重要なことは、痛みを必ず経験しなくては成長できないというわけではない。最終的に本作のスティーヴィーは「痛みを伴わずとも成長ができる」ということ自体を、痛みを通して学んだのだと言えるだろう。
どこかノスタルジックな世界観を捉えた本作は一人の少年の成長を描く青春映画でありながら、我々に「成長」することがどれほど不格好で痛々しいかを物語る作品となっている。
